音楽鑑賞と私

音楽鑑賞と私

 あなたの趣味は?と質問されたら、「音楽鑑賞」と答えることにしてきた。

 しかし、よく考えてみると、もう何年も、新たに買い求めた音楽というものが無い。サブスクの音楽サービスでも守備範囲は変わらぬままだ。最近の流行曲を耳にして、感心することはあっても、それ以上心を奪われるほどのことは無い。

 

 同じ曲をクルマで聴くことがいちばん多く、たまにスマホで音を確かめたりして「やっぱり良いな…」と感じ入ることはある。メロディや歌詞、リズムやイントロを何度も思い浮かべていることも少なくないのだが、そもそも音を鳴らして聴くこと自体がめっきり減った。それで満ち足りているのが正直なところだ。

 

 歳をとったということでもあるだろうし、同じ曲を繰り返し繰り返し聴き、今や私の欠くべからざる血肉になっているのだと思う。だから、私は「音楽好き」というのでなく、ある時期から特定の音楽家とその作品を必要とした、というのが正確なのかもしれない。

 

 もちろん、私にも、幼児番組や教育番組、テレビアニメのテーマソングやCM音楽に夢中になった経験はあるし、カラオケで歌うのが好きな曲もある。学生時代には弦楽サークルで部長のお鉢が回ってきて、クラシック音楽はそれなりに良いものだとわかった。しかし、私の生活や人生を変えることは無かった。

 あくまで私を動かしたのは、日本語の歌詞とメロディ、それを鳴らしているバンドやオケの音。日本のロックとポップスだった。

 

 その中でも比較的気軽に楽しんでいるのが角松敏生の音楽で、角松氏は、プロデューサー、コンポーザー、ギタリストなどとしても超一流だが、とりわけシンガーとして大好きだ(サブスクでは代表作がほとんど聴けないのが残念)。E-ZEE BANDという日本のファンクバンドもよく聴いてきた。濃密な音の刺激と中心人物である生熊 朗(イクマアキラ)氏の人間くさく熱い歌唱にも元気をもらえる(こちらは、わりとサブスクでもいけます。イクマ氏は、現在、沖縄に移住し、県民に親しまれる「ダイナミック琉球」を発表するなど大活躍中)。

 

 そして、最も真剣に聴いてきたのが高野寛、田島貴男(オリジナルラヴ)、かの香織の3氏で、長らく熱烈に支持している。私のような者が今どきの「推し」などという言葉を使うまでもなく、お三方ともmusicians’ musician と言ってよい存在だ。彼らの存在は別格で、芸術のレベルに達していると思う。

 

 いつもほのかな希望の光を示してくれる高野寛の歌、声、音を最も長く信頼してきたし、生の歓喜を鳴らし続けるオリジナルラヴは初見から熱狂し、今も鬼才 田島貴男に心酔している私だ。

 そして、かの香織。ひとりの人間が生きていくのに不可欠な構成要素を教えられ、自己愛と自尊心を必要なぶんだけ満たしてくれたがゆえに最も敬愛してきた。

 

 彼らの音楽は、青春時代から30年たっても決して古びることなく、演奏されるたびに新しく甦る、私にとってのクラシック音楽といっても良いかもしれない。何度も何度も聴くことを必要としてきたわけで、一見かわりばえの無い毎日の中でも、また、あらゆることがめまぐるしく移りゆく時にも、自分というものをたしかめながら歩み続けるための、とても孤独でプライベートかつ内的な精神活動だったのだ。決して皆で盛り上がったり騒いだりするためのものではなかった。これらとの偶然とも必然とも思える出会いには、感謝するほかない。

 

 特に、自分という存在の輪郭をとらえようとしてうまくいかず、見失っている貴方には、かの香織の音楽を処方箋として勧めたい。中でも、ソロデビュー後のファーストアルバム『 fine(ファイン)』は、一曲一曲が珠玉の作品群であり、90年代のはじめに奇跡的な屹立を示して今も輝いて見える。

 

[ ※ それに続く2つのミニアルバム『 VITA 』、『 Familia 』も聴きごたえがある。その後の『 Extra Bright 』、『 裸であいましょう 』で市場におけるキャリアのピークを迎えた。近年は、実家の酒蔵を継いだ杜氏としての活動も目立つ。 ]

 

 音楽療法という分野があるが、そのような誰でもが等しく(ある意味で、均等に、平均的に)恩恵を受ける性質のものではないのだろう。かの香織の音楽の力を余すところなく享受するには、ある種の感受性が必要だと思われるが、人と深くつながろうとしてできないとか、そうして傷ついたとか、言葉にできないまま苦しんでいることがあるという人に、とても響くのではないかと思う。誰もいない部屋で、ひとりで『 fine 』を最後まで聴いてみてほしい。何をやってもうまくいかず自分を大事に出来なかったかつての私は、涙を流すことすら許されない、身じろぎできないほどの静かで深い衝撃を与えられ、大げさなようだが、それを知る前後では全身の細胞が生まれ変わったような気がした。

 

 こうして書き表してみると、かのさんの存在は、教祖様みたいに思えてくる。たしかに「かの様、仏様」と呟いていた時期があるし、メロディや音は自然と降ってくるものらしいのだが、かの香織という類稀なる音楽的才能と真摯さを持ち合わせたその人が、ひとりの人間として等身大の「わたし」という個を掘り下げ内的な危機の中から言葉を紡ぎ出し生まれ変わっていく時の心のありようや風景を描き出した作品だからこそ持ちうる力ではないかと思う。

 

 私がこれらの音楽と親しんできたのは、レコードにかわって普及したコンパクトディスク(CD)を通してであった。キューン、キュルルル……という機械音に続いて鳴る音楽に心を踊らせていた。そういう時代だった。しかし、かの香織のCDなどは、軒並み廃盤になってしまったようだ。少なくとも店頭で見かけることは無い。90年代にタワーレコードの棚に並んでいたのは奇跡でもあり幻ともいえる。数年前、Amazonミュージックunlimitedでそのほとんどが聴けるのを知って感激し、最大限の敬意を表してすぐに契約した。

 

 ここで冒頭に戻るわけだが、Amazonミュージックunlimitedをサブスクライブしているからといって、かの香織、高野寛、オリジナルラヴの3つは、そうそう音を鳴らして聴くことが無い現在なのである。聴かなくても、いつでも心の中で鳴らすことができて、自分を調律してくれているような感じだ。

 

 治療者は、プライベートな生活を知られない方がよいという。音楽の趣味も、はっきり言って、好き好きだ。けれども、この水準のものは、無形の国民的な財産だと思う。日本語がわかるようになれば、人類の文化遺産になるのだから、こうしたささやかな形でも発信すべきだと信じてここに記しておきます。